福岡県の醤油組合は1906年(明治39年)に結成されました。醤油製造はふるくから伝わる日本の伝統技術ですが、産業の機械化が進んでいた明治末期当時でも昔と変わらない製法がほとんどで、品質も安定していませんでした。
石炭重視の国策から北九州を中心に人口が増え続け、経済発展に伴う需要が見込まれていた福岡。このままでは消費に応えることができず、有力な他県産醤油の進出や粗悪品の拡大を許してしまうと、業界の状況に危機意識をもった有志数名が肩を寄せ合って同業組合結成へと動き始めました。
同時期に、思いを同じくしながら別の動きをしていた数名が合流。県内約400の業者に説得、呼びかけして賛成を求めました。しかし、創立総会では出席者の定数を満たさずに結成を延期せざるを得ない前途多難ぶりでした。
その後、日露戦争が終わって意外な好景気が訪れたとき、新しい時代への期待感とともに組合結成の機運が再び生じ、同業者を勧誘して創立総会を開いたところ今度は満場一致で可決されました。
福岡県醤油業界が誇る、一業者枠を超えた「友和団 結」の組合精神の軌跡は、ここに輝き始めます。
1902年(明治35年) | 福岡県醤油同業組合の発起申請 |
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1903年(明治36年) | 福岡県醤油同業組合の発起認可 |
1905年(明治38年) | 日露戦争終戦後、産業界の盛況を受けて再度創立の機運が高まる |
1906年(明治39年) |
福岡県醤油同業組合成立認可 組合員数393名 21支部にて構成 |
1909年(明治42年) |
醸造研究所を設立、醸造学、発酵学、理化学、細菌分析等の購入を行う 醤油醸造講習会の開始 巡回指導開始(恐らくこの頃) |
無事に出発した組合でしたが、目の前にある課題は 山積みでした。まずは共同研究・試験、講習会での知識伝達を行って組合員の技術を磨き、品質を安定化。 粗製品を市場からなくすように努めます。
増える需要に応えようと、 生産機械や設備に大投資。 技術向上のかいもあって、組合結成時の県内生産量約 1.5 万klが、大正時代の終わりにあたる 20 年後に、2倍の約3万klまで成長します。
福岡県の枠を超えた活動も行い、 早くから九州全県と沖縄を巻き込んだ 「醤油品評会」も開催。 お互いの技術力を高めあっていました。
市場調査も行って、 県外品に負けないことを心がけ、原料価格の変動に対応しつつ最低価格協定を結び、不当競争を防ぎます。 (現在は廃止)
また、販路拡大を目指して他県の販売方法を学んだり、中国大陸や朝鮮半島に視察派遣して輸出のチャ ンスも探っていました。
色々な取り組みの中でも「製麹法 (※)」 を改善し、 熟成期間を短縮して不安定だった県内産しょうゆの 品質基準の制定に成功したことは組合事業の最も大 きな成果とされました。
※製麹法(せいきくほう)…蒸した大豆と炒った小麦に、 種麹 (たねこうじ) をつ けて麹菌(こうじきん) を適切に育て、大豆と小麦を発酵させる工程。 しょうゆづく りでは 「一麹、二櫂、三火入れ」と言われるほど麹づくりが重要。
結成後 |
醤油醸造講習会 毎年開催 技術巡回指導 定期的に実施 |
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1918年(大正7年) | 第一回九州沖縄醤油品評会開催 |
1926年(大正15年・昭和元年) | 醤油税廃止 |
1928年(昭和3年) | 新醸造研究所竣工 |
1930年(昭和5年) | 種麹製造 配布開始 |
1932年(昭和7年) | 第13回全国酒類醤油品評会において福岡が受賞点数89で全国一位 |
昭和の時代に入り、福岡のしょうゆは順調に成長を続けました。ある年の全国醤油品評会では福岡の89点が入賞。全国一位の受賞数となる輝かしい実績を残しました。
また、増え続ける人口とその需要に応えるために、日々の研究と投資を怠らず、生産量を伸ばし続け1930年代に約3.7万klにまで達します。
しかし「これから」のときに、戦争による災禍が日本を襲います。福岡大空襲では県内のしょうゆ蔵が多数被害を受け、組合の事務所も全焼。人々が焼け野原に呆然と立ちすくむ光景が広がりました。
さらに、戦時中の食料・価格統制下での生産は困難をきわめ、組合運営も大混乱に陥ります。
そのような中でも、何とかしょうゆづくりを続けて、人々の食生活を守ることが福岡のしょうゆを守り、厳しい時代を生き残ることにつながるのだと、業界内で出来る限りの協力を行って戦時を乗り切ろうとしました。
戦後、人々の心も県土も荒れ果てたなかで「友和団 結」のもと福岡のしょうゆは再び動き出します。災禍を生き延びたしょうゆ蔵をまとめ、戦後復興と経済発展に向けて新たな出発が始まりました。
1939年(昭和14年) | 商工業組合法制定により福岡県醤油工業組合に改組 |
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1942年(昭和17年) |
政府当局による物資統制令を受け工業組合を解散 福岡県醤油統制株式会社設立 |
1944年(昭和19年) |
戦時強制疎開令により社屋を解体 福岡市天神町株式取引所内に移転 |
1947年(昭和22年) | 福岡県醤油工業協同組合設立(統制会社の生産部門を分離吸収) |
1948年(昭和23年) | 組合軍総司令部の命令により福岡県醤油統制株式会社閉鎖 |
戦争から10年が経つ頃から日本は「高度経済成長」に入ります。復興をすさまじいスピードで成し遂げた日本経済は、その後約40年にわたり大きな成長を続けることになります。
その途中、日本人の生活が豊かになり人口も増え続ける中で、人々の生活にとって重要な食品産業は、これまでのやり方では需要に応えきれない現実に直面していました。このような背景のもと「中小企業近代化促進法」が制定され、全国の「しょうゆ業界」が近代化の対象となる「指定業種」に選ばれました。
全国の業界は、設備の近代化や生産の共同化、コスト引き下げなどを通じて、品質の安定化や生産量の増加を迫られます。
福岡では八幡製鉄所閉所や炭鉱閉山による人口流出、大企業による県内市場圧迫など大きな問題に直面。将来的な人手不足や生産力に対する危機感もあり、しょうゆづくりの生命線「共同製麹と原材料の共同購入」へと大きな舵を切りました。これが1966年の福岡県醤油醸造協同組合の設立になり、「生揚(きあげ)醤油」の一大生産工場として出発し「共醸共栄」の歩みが始まったのでした。
1950年(昭和25年) |
物資統制令の解除 国内経済の自由化 |
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1955年(昭和30年) |
政府によるエネルギー転換策 八幡製鉄所の向上配置転換 北九州人口流出 |
1963年(昭和38年) | JAS規格制定 |
1964年(昭和39年) | 近代化促進法により醤油業界が指定業種となる |
1965年(昭和40年) | 「醤油業近代化基本計画」が発表(農林省告示) |
1966年(昭和41年) | 福岡県醤油醸造協同組合設立 |
1967年(昭和42年) |
中小企業復興事業団発足、以降、近代化事業が一次〜五次まで行われる 筑紫野町に共同生揚工業竣工、操業開始 |
最初は小さなスタートを切った協同工場も、やがて大きな成長を遂げていきます。経済のグローバル化が進むなかで、しょうゆ造りは装置化の時代を迎え、大豆や小麦価格の大幅変動、原油価格の高騰など、一事業者では対処が難しい局面を迎えていました。設備・人材・技術を集約する協同化のメリットは少しずつ認知され、結果的に県内のしょうゆ生産量を拡大させることになりました。
また、世界に誇るしょうゆ醸造技術の担い手として、技術と品質を高める努力を続けたことで、福岡県産品が全国醤油品評会において最高レベルの評価を得るに至りました。
時代の変化とともに社会の価値観も変わっていきました。例えば、環境に対する配慮から容器を改善したり、食品事故・食中毒問題を背景に「食の安心・安全」を守るため情報公開を行うなど、常に時代変化への対応に迫られ、同業同士で知恵と工夫を出し合って数々の波を乗り切ってきました。
福岡のしょうゆは技術面で全国トップ水準を目指して走り抜く努力を続けるなか、時代は21世紀、さらに新しい時代へと突入していきます。
1971年(昭和46年) | 醸造協同組合、第1次増設工事 |
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1973年(昭和48年) |
第一回 全国醤油品評会 開催 第一次オイルショック |
1979年(昭和54年) | 第二次オイルショック |
1980年(昭和55年) | 福岡県醤油醸造協同組合 農林水産大臣賞受賞(食品産業復興発展への寄与) |
1981年(昭和56年) | 醤油会館(福岡市博多区堅粕)竣工 |
1984年(昭和59年) | 青年部会設立 |
1985年(昭和60年) | 福岡県醤油工業協同組合 中小企業庁長官賞受賞(優良組合) |
1990年(平成2年) |
バブル崩壊 台風17号・19号により組合企業に被害 全国醤油品評会で4年連続、組合企業が農林水産大臣賞を受賞 |
1994年(平成4年) | 有限会社 複醤販売 設立 |
2000年(平成12年) |
福岡県醤油醸造協同組合 ISO9000取得 地震、噴火等の自然災害が続く 暖冬・猛暑、天候不順、雪印問題をはじめ食品事故が多発 食の安全性への関心高まる |
2006年(平成18年) | 福岡県醤油会館(筑紫野市牛島)建設 |